あれは今年の3月? 墨田区東向島の、写真集制作のワークショップなどを行っている「Reminders Photography Stronghold」(以下「RPS」)を訪れたときに、代表の後藤由美さんが話しかけて下さった。 近年思っていることなのだけど、霧の濃い森の中で撮ったような、いわゆる心象風景的な抽象画のような写真をよく見かけ、撮った本人以外ではなかなか言わんとする処が分かりにくいのではないか? という事がある。 ここRPSに集う写真家の作品もその傾向が強いように感じ、ついその事を代表に言うと、心象風景であるのは当たり前で、表現の仕方にはそれぞれの時代の傾向という事はあろうが、本を制作してゆく上でその心象がプリントの仕方や並べ方、製本の仕方を通してフォーカスを鋭くしてゆき具体化してゆく --- そうしたお手伝いが出来るのがココだという旨が返ってきた。 そう、アンセル・アダムスやエドワード・ウェストンが好きで「ファイン・プリント」こそ写真表現だと思ってきた輩(自分)には、なかなか「時代の傾向」として近年の写真表現を同一線上の現象として見ることが出来ていないだけのことのよう。
そうした事を考えるよりも、自分の写真を集めて纏めて並べて足したり引いたりをしてみるのが、理解への近道のように思った。 理解もそうだが、それ以上にとにかく出力する方向にもって行かないことには始まらない話というか。
さて、なぜそのエピソードを思い出したかと言えば、きょう期せずしてピンボケの写真を撮ってしまったから。
このピンボケは、「オーバー・インフ」(「インフ」=インフィニティ=無限大/無限遠: ∞)と呼ばれるものに起因する。 マウント・アダプターでカメラ・ボディと異なるメーカーのレンズを組み合わせることが出来るのだが、大抵はピント・リングを回したときに無限遠が間違いなく撮影できるよう、安全のため無限遠「∞」の位置を越えてリングが回るように出来ていて、今日のこの撮影時には「いちばん遠く」のはずの「∞」よりも遠くにピント位置がありピンボケとなった。
ピンボケの写真って、自分的には「ない」なぁと思っていたのだけど。
最近では写真家の渡部さとるサン(自称”現在Youtuber”)が「ピンボケの力」と、ピントをぼかしても対象の存在感はあり続け、時にその力強さはむしろピントがボケているほうが強さを感じる」といった事を言われていた。 んー、まぁたしかにそう見えるか.. なぁ..と、やはりしっくり来ず、でもその写真を通しての想いのようなものは確かに伝わってきているような不思議な感覚になる。
そして今日、偶然に撮ったピンボケの写真を見て、不覚にも?? しっくり来てしまった。 今日は街の中を歩いて40カットほど撮ったし、夕方の分はこの他にピントの来ている写真もある。 でも今日はこのピンボケ写真が心象風景という感触とともになぜか心地よく。 普段なら「ピンボケ=あぁ残念」なのだけど、本当に何故か「なぜか」なンである。 ふと、ピント調整って、写真が発する現実感の調整か? と思ってみたり。