「今日はあの公園まで行こう」と昨日決めてあった。 朝は逆方向もいいンじゃないかとも考えたけど、やっぱり「そっち」へ行った。 オイスター・バーの看板を掲げるお店の牡蠣の殻にいっしゅん目をやり、次のお店の店先のブ厚いミントの葉を撮って、次にある服屋の前で白い花のオミナエシのような花を撮り、道を曲がって... 少し先の公園に到着。 昨夜、ひょんなきっかけでネット検索して出てきた、写真家 鬼海弘雄氏の写真集「靴底の減りかた」の、その表紙の写真が「この」街のとある場所であることに小さな驚きを覚えた。 その気分の流れのまま「どこを歩いたのか」、「他にどんなものを撮ったのか」と思いながらもその手がかりは全くないので、イメージまでにも届かないぼんやりした感触を処理しきれずに、色々なものが目についたのが今日の「この」時。 その表紙の場所は撮ったことがある。 でも全く絵にならない場所という思いがある。 表紙の写真はといえば、言ってみれば「あるがまま」に、でも真四角の画面のなかに隙間なく、35mm判で言う35mmくらいのレンズだろうか、無駄なく画面いっぱいに「その場所」の雰囲気を捉えている。 他に思い浮かんだのは、撮り方として写真家 長野重一氏のように28mmという視線も面白いし。 どちらも画面にムダなく、というか、程よくすっぽり収めているというか、撮り慣れている心地よさのようなものが。 その「撮り慣れた」に繋がるのは、鬼海弘雄氏しかり、細江英公氏しかり、森山大道氏しかり、語りだすと止まらないそれぞれの世界観なんだろうと。
そしてなぜか、公園の近くの階段に見つけた、置きっぱなしの文庫本を撮る自分。 何で?