2020-06-22

Un Quinto


   レストラン裏の駐車場 - っていうのをイメージして足を運ぶ。 ファインダーを覗いてみると、その空間はイメージとけっこう違っていた。 訝しげにこちらを見ているお店の人、声をかけてくれたお店の人、まぁ「何で撮ってるのか?」、普通に疑問に思うわナ。 こう言っては何だけど、自分だったらものすごく警戒しまくる。 長居せず機会を作るか、機会をもらえるような長居をさせてもらうか、長居できないけどじっくり撮るだけの対話を伴うか。 そうした関係性も写るように思う。

   ここ長らく、Sony a7sにCarl Zeiss Sonnar 2.8/85の組み合わせでばかり撮っていた。 以前は手こずった85mmだが、なんだか感覚に馴染んだ。
   最近観たYouTubeのコンテンツで、写真を生業とする渡部さとる氏の 「小瀧達郎のモノクロプリント 『縦位置と物語性』」 という回のなかに、「若い頃はなぜか広角が使えるんですよ。 不思議なんですけど.. 35mmでも広いなと思うくらいですよ、今は。」とあった。 そういうこと?
   広角は、特に25mmより広くなると、急に撮影時に画面に入ってくる要素が増える。 被写体を画面に収めるときに、足し算か引き算かを無意識にしているように思う。 この情報量が多すぎるのか、最近は「広角を使うには体力と気力がないと無理」と、わりと自然と口から出てしまう。 思えば、19の時に撮った写真に対峙すると、写っている範囲よりはるかに広く、ほぼ360°、空も地面も地面の下まで自分を取り巻く空気感が蘇ってくる。 おそらくその感触は、広角だから広く写るという理屈とは少し違って、55mmで撮ったものでも85mmで撮ったものでも写真には写り込んでくるもののように思う。 どうやら写っている画だけが表現されている全てではなく、そこにある「気迫」や「思い」の、不思議さ大事さを思う今日このごろ。 そして、「若い頃はなぜか広角が使える」を体感的に思い始めたいま、仮に、「広角」での撮影時に知らず知らず込めていたような「気迫」が減退してしまっているとして、そこには他の何かが入り込んでくるものだろうか?  そうした話を聞きながら、からだの変化をポツリポツリと時折感じる年齢となり、「これから」撮ってゆく写真への未知さを思う。