2017-12-23

"限りなく透明に近いブルー"


   村上龍の小説「限りなく透明に近いブルー」のタイトルに惹かれ、時々夕空を見上げる。 案外そうした碧色の空というのは無いもので、今朝は何気なくそのタイトルを口にしながら外へ出た。 もう25年ほど前になるだろうか、12月頃の夕刻、田舎町で電車を降り、駅舎をでると、わずかに湿気を感じる空気に透明感を覚え、ふと空を見上げてみたことがある。 そこには、白でもない碧と、青でもない蒼までの緩いグラデーションの中に微かに星が瞬いて見える空が広がっていた。 「限りなく透明に近いブルーだ...」 瞬間、そう思った。 それ以来、あの色には出会えていない。 「限りなく透明に...」というブルーは、青いガラスを透過した光を指していたと記憶しているが、心象をも映しての「ブルー」ではなかったか。 氏が学生時代を過ごした60年代後半、まだまだ戦後の空気が色濃かった時代なのだろう。 村上龍、景山民夫、この時代の混乱とアメリカの盛大さの混濁を覗き込んでしまった人たちには独特の影を感じる。 いまでこそさほど遠くなく、文化的にも平滑化されてしまったアメリカは、ただ世界の一国といった空気を醸しているが、ピンク色のキャデラック・エルドラドがきらびやかに映った時代の絶対的な「アメリカ」の存在感は心情的に遠く、それは憧れの極致であり、触れた者の心情の奥底に、深く鈍く光を放つ。 その光に色があるとすれば、「透明なブルー」のような気がする。